2025 .07.13
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2011 .10.02
追跡2011:愛知用水50年 高度成長支えた水 /愛知
◇水辺の風景探索
全長112キロ、愛知県内18市10町にまたがる愛知用水が9月30日、通水から50周年を迎えた。農業、工業、家庭などの水道すべての給水源で、10年度の使用量は4億5300万立方メートルとナゴヤドーム267杯分。整備運動の端緒は、渇水に苦しむ知多半島に木曽川の水を引こうという地元農家の願いだった。用水からもたらされた豊富な工業用水は、高度経済成長とともにものづくりの集積地・愛知を支えた。愛知用水の今昔をひもとく。
◇兼山ダム(岐阜県八百津町)
愛知用水の起点が兼山ダム。1943年に木曽川に造られた発電専用のコンクリートダムだ。
建設を見てきた古老、佐藤昭美さん(81)によると、当時近くに朝鮮から来た建設作業員の宿舎があり、約500人が働いていた。作業員からたばこを買う使いに10銭を渡され、2銭を駄賃にくれたと思い返しながら、建設時の事故で亡くなった日本人と朝鮮人の名を刻んだ慰霊碑を案内してくれた。【山盛均】
◇高蔵寺ニュータウン(春日井市)
丘陵地の中高層マンションや戸建て住宅を縫うように用水は流れる。両側は緑地帯で、散策路や児童遊園地が整備されている。近くの高台にあるのが県営高蔵寺浄水場。ニュータウン入居者約4万7000人に愛知用水から水を供給。ニュータウンの草創期を知る古老によると、数カ所あったニュータウンの候補地から高蔵寺が選ばれたのは、愛知用水の計画などライフラインの優位性が決め手になったという。【花井武人】
◇愛知池(東郷町など)
用水のほぼ中央に位置し、全体の水量を管理する愛知池。貯水しておき、必要時に送る。貯水量900万立方メートル。水面はボート競技に利用され、池の縁でウオーキングを楽しむ人も。住民らによるボランティア団体「愛知池友の会」は05年以来、周囲で花壇づくりなどを行う。メンバーの安積誠一さん(72)は「池がにぎやかになってきた」と言い、小笠原輝雄さん(70)は「町の誇れる所に」と環境保全への思いを語る。【岡村恵子】
◇佐布里池(知多市)
知多市の臨海工業地域から東へ約4キロ。丘を縫うように広がる水田を抜けると小高い堰堤(えんてい)が見えてくる。1965年に完成した佐布里(そうり)池だ。
40年から池北側に住む新海章寛さん(73)によると、完成以前はため池と水田が広がっており、池の完成で約1200平方メートルの耕地や山林が沈んだという。水面に夕日が映るころ、遊歩道を散策する人が行き交う。水面手前に約4600本の梅の木が葉を落としていた。伊勢湾台風と池の建設で一時激減した佐布里梅だ。【山田一晶】
◇美浜調整池(美浜町)
愛知用水最南端の美浜調整池は92年、2期事業の一つとして造られた。名鉄河和駅から南西に車で約10分。木々に囲まれた道を分け入ると、25メートルプール330杯分とされる巨大な池が現れた。以前は幹線水路の終点で水を川へ無駄に流すこともあり、「もったいない」(山下多津見・愛知用水総合管理所下流管理所長)の精神で調整池は造られた。用水はかつて知多半島の離島、篠島まで延びていたが、98年から県企業庁が引いた長良川の水に代わったという。【河出伸】
◇大変だった交渉 松尾元副知事が自叙伝で
愛知用水完成までの過程には数々の障害があった。県副知事を1963~70年に務めた松尾信資(のぶすけ)(1906~91)が自叙伝「遠山無限」で、農民の建設費用負担を決めるまでの利害対立や、用地・水利権交渉の大変さを書き残している。
松尾によると、59年に知多市に東海製鉄(現在の新日本製鉄名古屋製鉄所)の誘致が決まった後、製鉄所への給水に不可欠な佐布里池が、地元との用地交渉難から、なかなか着工できなかった。愛知県は、工業用に毎秒3立方メートルの追加取水を計画したが、この水利権変更をめぐって岐阜県との交渉が難航していた。
松尾は水道部を強化して地元と用地補償を解決。岐阜県や関西電力と交渉を進め、第1高炉の火入れを前にした64年9月、愛知と岐阜の両知事、中部地方建設局長と増加取水の覚書を交わした。
松尾は「利害関係の複雑な問題は、できないと捨てておいたり、政治問題とからんだりすると手がつけられなくなる。いつ解決したか分らぬように、水の流れる如(ごと)く解決することが、扱い方であるとつくづく思う」と述べている。【河出伸】
………………………………………………………………………………………………………
◆愛知用水に関連する出来事◆
○1944年ごろ
知多郡八幡村(現在の知多市八幡)の篤農家・久野庄太郎さん(故人)が干ばつを機に知多半島への用水建設運動を始める
○1948年7月
安城農林学校教諭(当時)の浜島辰雄さんが、自分で引いた用水の図面を持って久野さんを訪問
○同年12月
当時の吉田茂首相に用水整備を陳情
○1955年10月
愛知用水公団設立
○1957年8月
世界銀行借款、政府保証契約に調印
○同年11月
三好池工事着工
○1958年2月
牧尾ダム工事で死亡事故
○1961年9月
長さ112キロの幹線、1000キロ超の支線が完成し、通水式
○1968年10月
愛知用水公団、水資源開発公団に統合
○1981年
2期事業で水路の全面改築スタート
○1984年
長野県西部地震により牧尾ダムに大量に土砂が流入
○1992年5月
渇水で牧尾ダムが枯渇
………………………………………………………………………………………………………
◇給水区域の工業用品出荷額(単位・億円)
1974年 2006年
東海市 445 716
大府市 914
知多市 114 480
阿久比町 53
東浦町 512
(大府市、阿久比町、東浦町は1974年は給水区域ではないためデータなし=愛知県調べ)
◇給水区域の農業産出額(単位・億円)
1960年 2006年
半田市 5.8 76.4
常滑市 8.2 46.3
東海市 6.7 39.7
大府市 6.1 34.3
知多市 6.1 23.5
阿久比町 3.3 25.5
東浦町 4.4 32.6
南知多町 5 46
美浜町 5.5 46.2
武豊町 3.2 28.1
(愛知県調べ)
10月2日朝刊
(この記事は愛知(毎日新聞)から引用させて頂きました)
◇水辺の風景探索
全長112キロ、愛知県内18市10町にまたがる愛知用水が9月30日、通水から50周年を迎えた。農業、工業、家庭などの水道すべての給水源で、10年度の使用量は4億5300万立方メートルとナゴヤドーム267杯分。整備運動の端緒は、渇水に苦しむ知多半島に木曽川の水を引こうという地元農家の願いだった。用水からもたらされた豊富な工業用水は、高度経済成長とともにものづくりの集積地・愛知を支えた。愛知用水の今昔をひもとく。
◇兼山ダム(岐阜県八百津町)
愛知用水の起点が兼山ダム。1943年に木曽川に造られた発電専用のコンクリートダムだ。
建設を見てきた古老、佐藤昭美さん(81)によると、当時近くに朝鮮から来た建設作業員の宿舎があり、約500人が働いていた。作業員からたばこを買う使いに10銭を渡され、2銭を駄賃にくれたと思い返しながら、建設時の事故で亡くなった日本人と朝鮮人の名を刻んだ慰霊碑を案内してくれた。【山盛均】
◇高蔵寺ニュータウン(春日井市)
丘陵地の中高層マンションや戸建て住宅を縫うように用水は流れる。両側は緑地帯で、散策路や児童遊園地が整備されている。近くの高台にあるのが県営高蔵寺浄水場。ニュータウン入居者約4万7000人に愛知用水から水を供給。ニュータウンの草創期を知る古老によると、数カ所あったニュータウンの候補地から高蔵寺が選ばれたのは、愛知用水の計画などライフラインの優位性が決め手になったという。【花井武人】
◇愛知池(東郷町など)
用水のほぼ中央に位置し、全体の水量を管理する愛知池。貯水しておき、必要時に送る。貯水量900万立方メートル。水面はボート競技に利用され、池の縁でウオーキングを楽しむ人も。住民らによるボランティア団体「愛知池友の会」は05年以来、周囲で花壇づくりなどを行う。メンバーの安積誠一さん(72)は「池がにぎやかになってきた」と言い、小笠原輝雄さん(70)は「町の誇れる所に」と環境保全への思いを語る。【岡村恵子】
◇佐布里池(知多市)
知多市の臨海工業地域から東へ約4キロ。丘を縫うように広がる水田を抜けると小高い堰堤(えんてい)が見えてくる。1965年に完成した佐布里(そうり)池だ。
40年から池北側に住む新海章寛さん(73)によると、完成以前はため池と水田が広がっており、池の完成で約1200平方メートルの耕地や山林が沈んだという。水面に夕日が映るころ、遊歩道を散策する人が行き交う。水面手前に約4600本の梅の木が葉を落としていた。伊勢湾台風と池の建設で一時激減した佐布里梅だ。【山田一晶】
◇美浜調整池(美浜町)
愛知用水最南端の美浜調整池は92年、2期事業の一つとして造られた。名鉄河和駅から南西に車で約10分。木々に囲まれた道を分け入ると、25メートルプール330杯分とされる巨大な池が現れた。以前は幹線水路の終点で水を川へ無駄に流すこともあり、「もったいない」(山下多津見・愛知用水総合管理所下流管理所長)の精神で調整池は造られた。用水はかつて知多半島の離島、篠島まで延びていたが、98年から県企業庁が引いた長良川の水に代わったという。【河出伸】
◇大変だった交渉 松尾元副知事が自叙伝で
愛知用水完成までの過程には数々の障害があった。県副知事を1963~70年に務めた松尾信資(のぶすけ)(1906~91)が自叙伝「遠山無限」で、農民の建設費用負担を決めるまでの利害対立や、用地・水利権交渉の大変さを書き残している。
松尾によると、59年に知多市に東海製鉄(現在の新日本製鉄名古屋製鉄所)の誘致が決まった後、製鉄所への給水に不可欠な佐布里池が、地元との用地交渉難から、なかなか着工できなかった。愛知県は、工業用に毎秒3立方メートルの追加取水を計画したが、この水利権変更をめぐって岐阜県との交渉が難航していた。
松尾は水道部を強化して地元と用地補償を解決。岐阜県や関西電力と交渉を進め、第1高炉の火入れを前にした64年9月、愛知と岐阜の両知事、中部地方建設局長と増加取水の覚書を交わした。
松尾は「利害関係の複雑な問題は、できないと捨てておいたり、政治問題とからんだりすると手がつけられなくなる。いつ解決したか分らぬように、水の流れる如(ごと)く解決することが、扱い方であるとつくづく思う」と述べている。【河出伸】
………………………………………………………………………………………………………
◆愛知用水に関連する出来事◆
○1944年ごろ
知多郡八幡村(現在の知多市八幡)の篤農家・久野庄太郎さん(故人)が干ばつを機に知多半島への用水建設運動を始める
○1948年7月
安城農林学校教諭(当時)の浜島辰雄さんが、自分で引いた用水の図面を持って久野さんを訪問
○同年12月
当時の吉田茂首相に用水整備を陳情
○1955年10月
愛知用水公団設立
○1957年8月
世界銀行借款、政府保証契約に調印
○同年11月
三好池工事着工
○1958年2月
牧尾ダム工事で死亡事故
○1961年9月
長さ112キロの幹線、1000キロ超の支線が完成し、通水式
○1968年10月
愛知用水公団、水資源開発公団に統合
○1981年
2期事業で水路の全面改築スタート
○1984年
長野県西部地震により牧尾ダムに大量に土砂が流入
○1992年5月
渇水で牧尾ダムが枯渇
………………………………………………………………………………………………………
◇給水区域の工業用品出荷額(単位・億円)
1974年 2006年
東海市 445 716
大府市 914
知多市 114 480
阿久比町 53
東浦町 512
(大府市、阿久比町、東浦町は1974年は給水区域ではないためデータなし=愛知県調べ)
◇給水区域の農業産出額(単位・億円)
1960年 2006年
半田市 5.8 76.4
常滑市 8.2 46.3
東海市 6.7 39.7
大府市 6.1 34.3
知多市 6.1 23.5
阿久比町 3.3 25.5
東浦町 4.4 32.6
南知多町 5 46
美浜町 5.5 46.2
武豊町 3.2 28.1
(愛知県調べ)
10月2日朝刊
(この記事は愛知(毎日新聞)から引用させて頂きました)
PR