2025 .07.07
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2012 .02.06
何が日本の政治改革を妨げているのか
藤田正美の時事日想:
このところずっと気になっているのが「政治の劣化」ということだ。それは社会のいろいろな問題について、政治(あるいは政治家)が解決策を示すことができないように見えるからである。テレビなどで政治家の議論を聞いていても、納得できる話を聞いたことは滅多にないと思えてしまう。
【拡大画像、ほか】
日本だけではないのかもしれない。イタリアのベルルスコーニ前首相には昔から大きな疑問符が付いていた。「リーダーとしてふさわしくない」という評価は、ウィキリークスで外交公電が暴露されるはるか以前から周知の事実であった。英エコノミスト誌は歯に衣着せぬ論評で有名だが、ベルルスコーニ首相の顔を表紙に掲載して「辞めたほうがいい」と書いたのには少し驚いた(ちなみにわが日本の森喜朗元首相も、同誌の表紙で「辞めろ」と書かれた1人である)。
そのイタリアは国の債務が増えたことで、市場から国債を売り込まれ、資金調達が苦しくなった。ベルルスコーニ前首相はそれを理由に退陣に追い込まれ、その後に政治家が1人もいない内閣が成立した。「財政再建テクノクラート内閣」である。結局は次の選挙を気にする政治家では、国民に痛みを強いる改革はできないということなのだろうが、日本では真似のできない芸当だ。
日本の内閣は民間の専門家だけで構成することはできない。憲法による制限があるからだ。憲法67条には内閣総理大臣は国会議員の中から指名されることが規定されており、さらに68条には総理大臣が指名する国務大臣の過半数は国会議員でなければならないと書かれている。
もちろんこの規定は、選挙という過程を経ない人々が政治の実権を握ることを禁じたものであり、その意味では民主主義の根幹と言ってもいい。「権力の行使は有権者によって付託された人々が担うべきものである」というのは民主主義社会の大原則だ(小泉純一郎首相の時に経済政策で大きな力を振るった竹中平蔵国務大臣は民間人であることを理由に批判され、後に参議院選挙に出馬して当選した)。
もっとも民主主義だから政治的な意思決定がうまく行くというものでもない。第一、この仕組みは時間というコストがかかる。第二に、民主主義による決定がいつも正しいわけではない。むしろ振れるのが普通であり、その振れ方によってはとんでもない権力者を生み出すことがある。あのヒトラーでさえ最初は選挙で選ばれた(もちろん当時のドイツの社会状況が影響している)。第三に、選挙を前提としている以上、政治家が打ち出す政策は常にポピュリズム(大衆迎合主義)的な色彩を帯びがちである。増税による財政再建ができないとか、本来は引き下げるべき年金支給額を引き下げないというのはこのためだ。
●嘆いているだけでは何も変わらない
先日、ある与党議員と話す機会があった。その議員に言わせれば、すでに政党は機能不全に陥っている。民主党、自民党、どの政党でも同じ。いわゆる「政界再編」で政党の順列組み合わせを変えてみても事態を改善することはできないのだという。法律を決めたり、変えたりするためには議員でいることが必要だが、数を得なければ力にならず、そうなると政党のしがらみに縛られてしまうというジレンマに陥っているように聞こえる。
ある官僚は「政治家も官僚も国民も、要するに覚悟が足りない」と語った。民主主義というからには、最高権力を持つのは国民だ。その国民が、自分たちに都合のいい話ばかりを政治家に求めれば、政治家は結局それに迎合せざるをえない。税金を上げられるのは嫌だが、社会保障はしっかりしてほしいというのは、しょせん無理な話なのである。
「無駄を削れ」というのは分かりやすいし、無駄は必ずある。昔、トヨタを取材していた時、「絞ればまだ出るボロぞうきん」という言葉を聞いた。トヨタほど無駄を徹底して省いた企業でも、まだ絞れるという戒めだ。
国や地方自治体は、無駄を省くというインセンティブはない。予算が多い、人員が多いことが存在価値を示すからである。それを「削る」というのは存在価値の否定につながるから、役人はやりたがるはずはない。それでも、無駄を削れば、例えば税金を上げなくても社会保障を持続可能にできると考えるのはあまりにも楽観的である。
さらにそれを世代間戦争にするのも事実を直視しないことにつながっている。団塊の世代の一員として、若い世代に負担をかけるのは申しわけないという気持ちはあっても、先日の人口推計にあったように、今から50年後の老人の比率は現在よりも高いのである(その時には団塊の世代は消えている)。
出生率が1.3前後であれば、後の世代の数が少ないという状態が続くということだ。すなわち、今の若者が世代間格差に怒っているのと同じように、未来の若者も世代間格差を怒ることになる。
きちんとした試算や推計に基づいて、私たちは自分たちの国が将来どうなるのか、その負担をどうすればいいのかを真剣に考えてみなければならない時に来ていると思う。よく街頭インタビューで「もう少しちゃんとやってほしい」という感想を聞くが、それだけではたぶん足りない時代なのだ。政治の劣化を嘆き、英雄的なリーダーを待望しても、おそらく何も解決することはできない。
[藤田正美,Business Media 誠]
(この記事は産業(Business Media 誠)から引用させて頂きました)
藤田正美の時事日想:
このところずっと気になっているのが「政治の劣化」ということだ。それは社会のいろいろな問題について、政治(あるいは政治家)が解決策を示すことができないように見えるからである。テレビなどで政治家の議論を聞いていても、納得できる話を聞いたことは滅多にないと思えてしまう。
【拡大画像、ほか】
日本だけではないのかもしれない。イタリアのベルルスコーニ前首相には昔から大きな疑問符が付いていた。「リーダーとしてふさわしくない」という評価は、ウィキリークスで外交公電が暴露されるはるか以前から周知の事実であった。英エコノミスト誌は歯に衣着せぬ論評で有名だが、ベルルスコーニ首相の顔を表紙に掲載して「辞めたほうがいい」と書いたのには少し驚いた(ちなみにわが日本の森喜朗元首相も、同誌の表紙で「辞めろ」と書かれた1人である)。
そのイタリアは国の債務が増えたことで、市場から国債を売り込まれ、資金調達が苦しくなった。ベルルスコーニ前首相はそれを理由に退陣に追い込まれ、その後に政治家が1人もいない内閣が成立した。「財政再建テクノクラート内閣」である。結局は次の選挙を気にする政治家では、国民に痛みを強いる改革はできないということなのだろうが、日本では真似のできない芸当だ。
日本の内閣は民間の専門家だけで構成することはできない。憲法による制限があるからだ。憲法67条には内閣総理大臣は国会議員の中から指名されることが規定されており、さらに68条には総理大臣が指名する国務大臣の過半数は国会議員でなければならないと書かれている。
もちろんこの規定は、選挙という過程を経ない人々が政治の実権を握ることを禁じたものであり、その意味では民主主義の根幹と言ってもいい。「権力の行使は有権者によって付託された人々が担うべきものである」というのは民主主義社会の大原則だ(小泉純一郎首相の時に経済政策で大きな力を振るった竹中平蔵国務大臣は民間人であることを理由に批判され、後に参議院選挙に出馬して当選した)。
もっとも民主主義だから政治的な意思決定がうまく行くというものでもない。第一、この仕組みは時間というコストがかかる。第二に、民主主義による決定がいつも正しいわけではない。むしろ振れるのが普通であり、その振れ方によってはとんでもない権力者を生み出すことがある。あのヒトラーでさえ最初は選挙で選ばれた(もちろん当時のドイツの社会状況が影響している)。第三に、選挙を前提としている以上、政治家が打ち出す政策は常にポピュリズム(大衆迎合主義)的な色彩を帯びがちである。増税による財政再建ができないとか、本来は引き下げるべき年金支給額を引き下げないというのはこのためだ。
●嘆いているだけでは何も変わらない
先日、ある与党議員と話す機会があった。その議員に言わせれば、すでに政党は機能不全に陥っている。民主党、自民党、どの政党でも同じ。いわゆる「政界再編」で政党の順列組み合わせを変えてみても事態を改善することはできないのだという。法律を決めたり、変えたりするためには議員でいることが必要だが、数を得なければ力にならず、そうなると政党のしがらみに縛られてしまうというジレンマに陥っているように聞こえる。
ある官僚は「政治家も官僚も国民も、要するに覚悟が足りない」と語った。民主主義というからには、最高権力を持つのは国民だ。その国民が、自分たちに都合のいい話ばかりを政治家に求めれば、政治家は結局それに迎合せざるをえない。税金を上げられるのは嫌だが、社会保障はしっかりしてほしいというのは、しょせん無理な話なのである。
「無駄を削れ」というのは分かりやすいし、無駄は必ずある。昔、トヨタを取材していた時、「絞ればまだ出るボロぞうきん」という言葉を聞いた。トヨタほど無駄を徹底して省いた企業でも、まだ絞れるという戒めだ。
国や地方自治体は、無駄を省くというインセンティブはない。予算が多い、人員が多いことが存在価値を示すからである。それを「削る」というのは存在価値の否定につながるから、役人はやりたがるはずはない。それでも、無駄を削れば、例えば税金を上げなくても社会保障を持続可能にできると考えるのはあまりにも楽観的である。
さらにそれを世代間戦争にするのも事実を直視しないことにつながっている。団塊の世代の一員として、若い世代に負担をかけるのは申しわけないという気持ちはあっても、先日の人口推計にあったように、今から50年後の老人の比率は現在よりも高いのである(その時には団塊の世代は消えている)。
出生率が1.3前後であれば、後の世代の数が少ないという状態が続くということだ。すなわち、今の若者が世代間格差に怒っているのと同じように、未来の若者も世代間格差を怒ることになる。
きちんとした試算や推計に基づいて、私たちは自分たちの国が将来どうなるのか、その負担をどうすればいいのかを真剣に考えてみなければならない時に来ていると思う。よく街頭インタビューで「もう少しちゃんとやってほしい」という感想を聞くが、それだけではたぶん足りない時代なのだ。政治の劣化を嘆き、英雄的なリーダーを待望しても、おそらく何も解決することはできない。
[藤田正美,Business Media 誠]
(この記事は産業(Business Media 誠)から引用させて頂きました)
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