2025 .07.05
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2012 .02.27
自民党・竹本直一代議士が経済財政予算について政府に質疑する。
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2012 .02.27
世界とは“自分の見えている範囲”
2005年10月8日、パキスタンのカシミール地方でマグニチュード7.6の大地震があり、9万人もの死者が出ています。みなさん、この地震のことを覚えていらっしゃるでしょうか?
【他の画像】
一方、阪神淡路大震災の死者は6000人強、東日本大震災はその3倍近い1万6000人以上、また、9.11のテロ事件とニューオリンズのハリケーンの犠牲者が約2000人ずつです。
「人命の重さが数に比例する」と言う気はありませんが、9万人が亡くなったパキスタンの地震より、犠牲者2000人の9.11の方が圧倒的な関心を集め、長く記憶されるのが世界の現実です。
半面、パキスタンで大地震があったことを世界の人が知る時代になっただけでも、すごいこととも言えます。最近、世界のあちこちで大災害が起こっているような気がしますが、実際には「昔は遠い外国で起こった災害は、他国ではあまり報道されなかった」だけかもしれません。
私はよく、「世界とは、自分が知っている範囲のことである」と感じます。知らないことは、存在自体が認識されません。私たちが「世界は……」と語る時、それは自動的に「私が知る範囲の世界は……」ということです。
努力すれば、より多くを知り、自分の知る世界を広げることができます。けれども、誰にとっても「この世に存在しているすべてを知ること」は不可能です。
読書家を自認する人なら誰でも「こんなにもたくさん読むべき(読みたい)本があるのに、時間がまったく足りない」という焦りを感じたことがあるでしょう。世の中には無限に広がる知の世界がありますが、すべてを知ることは誰にもできません。
一方で、「知らないからこそ幸せ」という状況もよくあります。人間は、知れば知るほど楽しくなれるわけでも、幸せになれるわけでもありません。むしろ世界が狭いほど、知っている範囲が狭いほど、幸せだという場合も多いです。
人は、自分より恵まれている人、豊かな人の存在を知らなければ、ねたみや焦燥を感じないで済むし、パートナーの浮気や裏切りを知りたくない人は多いでしょう。
●“世界”の見え方の違い
「世界=自分が知っている範囲」であるならば、個々人が認識する世界は、その人が「どの程度知ろうとしているか」という意思や勉強量、経験量に依存します。
例えば、世界に貧しい人たちがいることを知らない間は、日本でのほほんと暮らすことができます。これを「ステップ1」としておきましょう。
しかし、海外に行き、「驚くほど貧しい国がある」と実際に見聞きすると、いきなり問題意識が高まり、開発経済学を学んでみたり、海外ボランティアに参加し始めたりする人が現れます。知っている世界が広がり、行動が変わる。これがステップ2です。
さらに学びの範囲が広がると、非営利団体の非生産性や、支援側の国際機関が極めて官僚的な組織であること、国際援助の現場にも政治の駆け引きが渦巻いている、といった現実も知ることになります。
それらの新たな世界を知ったために、国際援助の仕事ではなく、自分の国で普通に働き、経済的な付加価値を高める活動に自分の居場所を見つける人もいます。これがステップ3です。
さらに一部の人は「国際援助に非効率や政治的な側面があるのは事実だが、それでも自分はそんな環境の中で地道に援助を続けていこう」と思い始めます。これをステップ4とします。
人がこれらのステップのどこに位置するかは、それぞれの人が「知っている範囲=その人に見えている世界の様子」の違いによって影響を受けます。
ある人が国際援助に強い関心を持ち、ほかの人がそうでないのは、2人の価値観の違い以上に「2人の見えている世界が異なるものだから」という理由も大きいのです。
さらに興味深いのは、ステップ2にいる人が、より広い範囲が見えているステップ3の人に対して、「彼らが国際援助に興味を持たないのは、貧しい人たちの現状を知らないからではないか」と感じることさえあることです。
実際にはステップ3の人は、貧しい人たちの現状のほかに、それを援助する側の実態に関してまで知識を得てしまったために、自分の人生を別の場所に置こうという判断をしたわけです。しかし、ステップ2の人にはそんな世界は見えていません。
●世界とは“自分の見えている範囲”
この例に限らず、私たちが理解しておくべきは、自分が「これが世界の現状だ」と思っているものは、決して“世界”の現状なんかじゃないということです。
個々の人が知っている範囲が、その人にとっての世界に見えているだけです。誰かが「ばかげた意見」を口にしたとき、私たちは「あいつはホントに分かってない」と思ったりします。
けれど本当は、その人には、自分には見えていない、何か別の世界が見えているのかもしれないのです。
9.11はこれからも多くの人の記憶に残り続けます。けれどパキスタンで9万人がなくなった地震は、遠からず「なかったこと」になってしまうでしょう。一方、それをずっと身近に見知っている人にとっては、世界はまったく違ったものに見えていることでしょう。
そんじゃーね。
(ちきりん)
(この記事は産業(Business Media 誠)から引用させて頂きました)
2005年10月8日、パキスタンのカシミール地方でマグニチュード7.6の大地震があり、9万人もの死者が出ています。みなさん、この地震のことを覚えていらっしゃるでしょうか?
【他の画像】
一方、阪神淡路大震災の死者は6000人強、東日本大震災はその3倍近い1万6000人以上、また、9.11のテロ事件とニューオリンズのハリケーンの犠牲者が約2000人ずつです。
「人命の重さが数に比例する」と言う気はありませんが、9万人が亡くなったパキスタンの地震より、犠牲者2000人の9.11の方が圧倒的な関心を集め、長く記憶されるのが世界の現実です。
半面、パキスタンで大地震があったことを世界の人が知る時代になっただけでも、すごいこととも言えます。最近、世界のあちこちで大災害が起こっているような気がしますが、実際には「昔は遠い外国で起こった災害は、他国ではあまり報道されなかった」だけかもしれません。
私はよく、「世界とは、自分が知っている範囲のことである」と感じます。知らないことは、存在自体が認識されません。私たちが「世界は……」と語る時、それは自動的に「私が知る範囲の世界は……」ということです。
努力すれば、より多くを知り、自分の知る世界を広げることができます。けれども、誰にとっても「この世に存在しているすべてを知ること」は不可能です。
読書家を自認する人なら誰でも「こんなにもたくさん読むべき(読みたい)本があるのに、時間がまったく足りない」という焦りを感じたことがあるでしょう。世の中には無限に広がる知の世界がありますが、すべてを知ることは誰にもできません。
一方で、「知らないからこそ幸せ」という状況もよくあります。人間は、知れば知るほど楽しくなれるわけでも、幸せになれるわけでもありません。むしろ世界が狭いほど、知っている範囲が狭いほど、幸せだという場合も多いです。
人は、自分より恵まれている人、豊かな人の存在を知らなければ、ねたみや焦燥を感じないで済むし、パートナーの浮気や裏切りを知りたくない人は多いでしょう。
●“世界”の見え方の違い
「世界=自分が知っている範囲」であるならば、個々人が認識する世界は、その人が「どの程度知ろうとしているか」という意思や勉強量、経験量に依存します。
例えば、世界に貧しい人たちがいることを知らない間は、日本でのほほんと暮らすことができます。これを「ステップ1」としておきましょう。
しかし、海外に行き、「驚くほど貧しい国がある」と実際に見聞きすると、いきなり問題意識が高まり、開発経済学を学んでみたり、海外ボランティアに参加し始めたりする人が現れます。知っている世界が広がり、行動が変わる。これがステップ2です。
さらに学びの範囲が広がると、非営利団体の非生産性や、支援側の国際機関が極めて官僚的な組織であること、国際援助の現場にも政治の駆け引きが渦巻いている、といった現実も知ることになります。
それらの新たな世界を知ったために、国際援助の仕事ではなく、自分の国で普通に働き、経済的な付加価値を高める活動に自分の居場所を見つける人もいます。これがステップ3です。
さらに一部の人は「国際援助に非効率や政治的な側面があるのは事実だが、それでも自分はそんな環境の中で地道に援助を続けていこう」と思い始めます。これをステップ4とします。
人がこれらのステップのどこに位置するかは、それぞれの人が「知っている範囲=その人に見えている世界の様子」の違いによって影響を受けます。
ある人が国際援助に強い関心を持ち、ほかの人がそうでないのは、2人の価値観の違い以上に「2人の見えている世界が異なるものだから」という理由も大きいのです。
さらに興味深いのは、ステップ2にいる人が、より広い範囲が見えているステップ3の人に対して、「彼らが国際援助に興味を持たないのは、貧しい人たちの現状を知らないからではないか」と感じることさえあることです。
実際にはステップ3の人は、貧しい人たちの現状のほかに、それを援助する側の実態に関してまで知識を得てしまったために、自分の人生を別の場所に置こうという判断をしたわけです。しかし、ステップ2の人にはそんな世界は見えていません。
●世界とは“自分の見えている範囲”
この例に限らず、私たちが理解しておくべきは、自分が「これが世界の現状だ」と思っているものは、決して“世界”の現状なんかじゃないということです。
個々の人が知っている範囲が、その人にとっての世界に見えているだけです。誰かが「ばかげた意見」を口にしたとき、私たちは「あいつはホントに分かってない」と思ったりします。
けれど本当は、その人には、自分には見えていない、何か別の世界が見えているのかもしれないのです。
9.11はこれからも多くの人の記憶に残り続けます。けれどパキスタンで9万人がなくなった地震は、遠からず「なかったこと」になってしまうでしょう。一方、それをずっと身近に見知っている人にとっては、世界はまったく違ったものに見えていることでしょう。
そんじゃーね。
(ちきりん)
(この記事は産業(Business Media 誠)から引用させて頂きました)
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